飛鳥の遺跡を訪ねて

奈良県明日香村
05/11/13 
帝塚山学院大学 後期 公開講座より
飛鳥現地講義・見学

講師 中尾 芳治教授


甘樫丘(あまかしのおか)の
案内板。


小高い甘樫丘(標高148M)の
頂上広場。


畝傍山が見える橿原市街。


左に小さく耳成山・右へ香具山。


中央辺りが藤原宮跡。


飛鳥寺から右へ、飛鳥京跡方面を
望む。



右下辺りが飛鳥寺。


采女(うねめ)の 袖吹きかへす 明日香風
 都を遠み いたづらに吹く
志貴皇子
<飛鳥宮の女官の袖を吹き返した明日香風
藤原宮に移った今は、遠くむなしく吹くよ>
揮毫:犬養孝(国文学者)
大化改新、舞台に迫る 明日香・甘樫丘東麓遺跡

蘇我入鹿の邸宅跡か、奈良・明日香村ふもとで建物跡出土

 奈良県明日香村の甘樫丘(あまかしのおか)(標高148メートル)のふもとにある
甘樫丘東麓(とうろく)遺跡で、掘っ立て柱建物5棟や塀などの遺構が見つかったと
奈良文化財研究所が13日、発表した。
94年には約20メートル南東で大量の焼けた壁材や木材、土など(7世紀中ごろ)が出土しており、
そのすぐ近くで発見されたことで、今回の建物跡は、
大化改新のクーデターで倒れた権力者、蘇我入鹿(そがのいるか)の焼け落ちた邸宅跡の
可能性が高いという。
同研究所は周囲の発掘を続け、日本書紀が描く蘇我氏滅亡のドラマを裏付けたい考えだ。

 国営飛鳥歴史公園の整備に先立ち、約725平方メートルを発掘。
直径20〜30センチの柱穴が20個以上見つかった。建物は南北10.5メートル、
東西3.6メートルのものなど、いずれも小規模で、全容や用途は不明。
塀は長さ約12メートル分。周辺の溝(幅0.8〜1メートル)からは、焼けた石や土、
炭などが出土した。

 調査地は甘樫丘の東側のふもとで、入り江のようになった谷間。起伏の激しい場所を
大規模に整地していたことも今回わかった。

 丘の頂上からは蘇我氏建立の飛鳥寺跡や、大化改新の幕開けとなる「乙巳(いっし)の変」
(645年)で入鹿が中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(天智天皇、626〜671)に
首をはねられたとされる飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)の伝承地(後の飛鳥浄御原宮
(きよみはらのみや)の跡)などが見渡せる。

 日本書紀によると、644年、入鹿の邸宅が丘の谷間、父の蝦夷(えみし)の邸宅が
丘の上に築かれ、乙巳の変でいずれも焼け落ちたとされる。
焼けた部材や土などが94年に出土した際には建物跡は見つからなかったが、
同研究所は今回の発見で入鹿邸跡との見方を強めている。

 今回出土した土器の中には、入鹿邸が存在した7世紀前半のもの以外に、
7世紀後半のものもあった。遺構が入鹿邸跡とすれば、蘇我氏滅亡後もこの場所に
何らかの施設があったことになる。

以上 05/11/14 朝日新聞朝刊から掲載しました。
私たちが訪れた翌日の記事だけに、とても印象深く、興味を持って読ませてもらいました。


水落遺跡。
周囲に貼石を巡らせた基壇を設け、地中に
礎石を埋め込みその上に掘立て柱をたてた
非常に堅固な二階建ての建物の地下に
木樋や銅の管を配置して水時計を動かす水を
取り込んでいる。


水時計
日本書紀によれば、斉明6年(660年)
5月「皇太子が初め漏れ剋を造り、人々に
時刻を知らせた。」とある。


この水時計は、わが国で始めて作らせた
水時計の跡にあたる。


水落遺跡の説明板。