史跡
難波宮跡
(なにわのみやあと)
大阪市中央区法円坂
2006/11/12
帝塚山学院大学 後期公開講座 V
現地見学・講義
『難波宮跡・大阪歴史博物館』
講師 中尾芳治教授
平成18年11月12日(日)午後1時に難波宮跡公園内、西八角殿跡(藤棚)に集合
後期公開講座の<日本の都城遺跡をめぐる諸問題ー難波宮跡を中心にー>の最終講義は
現地に出向いての講義となった。
当日は曇ったり晴れたりの少し肌寒い日ではあったが、今日の現地説明はこれまでの
教室に於ける講義の総集編、有意義なひとときだった。


法円坂交差点から見た難波宮跡。


西八角殿。 (見にくいが中央の藤棚)


左、NHK大阪・右大阪歴史博物館。


集合場所の西八角殿(太い幹の藤棚になっている)。
中尾教授の今日の講義内容についての説明を受ける。


難波宮の中心をなす大極殿院跡、基壇のみ復元。
上の2枚の写真は大極殿の基壇、この上に堀っ立柱の宮殿が建っていた。
円形の大理石は柱の太さを表す。

大極殿(だいごくでん)、国家的儀式が執り行われる宮殿の中心的な建物。
建物の中央に設置される 高御座(たかみくら)は、そうした儀式の際の天皇のための座である。


講義に来られる方は、いつも熱心な人達だ。


史跡博物館の南側には、高床式の倉庫の復元が。


大阪歴史博物館

これを立てるにあたっては、発掘調査を終えて建てられた。
1Fの一部フロアーはガラス張りで、柱穴跡がそのまま
保存されている。


今からおよそ1350年ほど前の飛鳥時代、この博物館が建つ敷地には難波長柄豊碕宮という宮殿が置かれていた。
発掘調査ではたくさんの倉庫跡やそれらを区画する塀跡、宮廷に水を供給した水利施設などが見つかっている。そのほとんどは再び埋め戻して保存するとともに、一部は掘り出したままの状態で見ることが出来る。


法円坂遺跡・大型倉庫群。
上町台地北部に当たるこの地(法円坂交差点より北側)、水の都大阪はここからで、発展は始まった、
難波宮が置かれる以前、5世紀の時代である。
この地には規則正しく16棟に及ぶ倉庫群が建ち並び、その1棟の床面積は約90uもあった。
物資の一大集散地でもある、瀬戸内海に近いこの場所は、
難波津(なにわず)と呼ばれる港があって良く栄へ、大和や河内へつながる交通の要所であった。
迎賓館のような建物や国の出先機関が設けられ、木簡や瓦なども数多く出土している。
上下4枚の写真は、新しく立て替えられたNHKの建物の地下、発掘を終えてから建てられており、
遺跡は現状のまま保存されている、丸い円柱様なものは柱に見立てている。


NHK地下の泉施設。
一部が現状のまま保存されている。
石組み溝。
花崗岩の自然石を2〜3段積み上げ、幅は内法で約0,5m、深さは約1mである、
谷頭につくられた泉施設からほぼ谷筋の方向に延び、途中から蓋石を被せた暗渠となる。
蓋石は最大のもので長径1.5m以上、重さ約1.8tもある。
下写真右は内部の状況を調べるためクレーンを用いて蓋石を一時撤去したところである、
溝の底にも石が敷かれていたことがわかる
水利施設から出土した遺物。

水利施設やその周辺は木製品が残りやすい
環境に恵まれ、木簡や人形・船形などの祭祀具などが
出土した。
土器も多量にあり土師器(はじき)の杯・皿は精良の
粘土を用い暗文(あんもん)やヘラミガキを施している。

須恵器もここでは古墳時代に比べて、つまみの付いた
蓋をもつ新たなスタイルのものが数を増しつつある。
これらは、7世紀中頃のもので、前期難波宮を
「難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)」,と
する考えの大きな根拠となる。
10階フロアーは難波宮の大極殿を原寸大に復元している。
直径70pもある朱塗りの柱が建ち並び官人たちが整列して宮廷の儀式を見るようである。


鴟尾(しび)瓦。

鴟尾とは古代においては建物の棟の両端を
飾る大型の瓦のこと。
火除けのまじないとして用いられた。


考古学者 山根徳太郎教授
難波宮跡出土の鴟尾と山根徳太郎教授。
この鴟尾は、昭和28年(1953)11月に、中央区法円坂住宅の建設工事中に発見された。
最初に携わったのが、山根徳太郎教授である。難波宮跡の発見はこの一枚の鴟尾瓦から始まる。
この発見をきっかけに難波宮の発掘調査が始まり今日へと続く。


前期難波宮殿。


後期難波宮殿。


大阪歴史博物館より大阪城南側。


難波宮跡公園を望む。中央左に大極殿跡。


大阪歴史博物館からの大阪城。
ガラス越しで、中央の天守閣少し見にくい。
今回の現地講義で、中尾先生は「今日はまだ発表できませんが、数日中に新聞報道等で
遺跡発見の発表があります」 と言われた、市教委の難波宮跡整備計画専門委員である氏にとって
事前発表は出来なかったのであろう。
その3日後の、朝日新聞他の朝刊に掲載された記事が以下の内容である。
最古の迎賓施設か、難波宮跡で高床建物跡出土.

大阪市中央区の前期難波宮(なにわのみや)跡で、周囲に回廊跡がある7世紀中頃(飛鳥時代)の高床建物跡が見つかったと14日、大阪市教委と市文化財協会が発表した。
当時、難波宮の東に広がっていた湖を望む崖(がけ)の上に立っていたとみられ、市教委は「皇族が眺めと酒宴を楽しんだ望楼だろう。
外国使節をもてなした宮殿内の迎賓館としての機能もあったのではないか」としている。
迎賓館とすれば、最古とされる飛鳥京(奈良県明日香村)の発掘例を約10年さかのぼることになる。

天皇や皇太子らが宮中饗宴などに使った「望楼」とみられる前期難波宮の高床建物跡.
=11月14日午後、大阪市中央区で.


市教委によると、望楼跡は、宮殿中心の内裏(だいり)から東約200メートルの難波宮東方官衙(かんが)と呼ばれる地域にあった。
南北15メートル、東西6メートルの掘っ立て柱建物。柱跡は直径約50センチ、柱穴は長径約1.3メートル。高さ10メートル超の重層建物だったとみられる。
幅3メートルの回廊跡も見つかり、南側に大門跡もあった。
回廊の内側に直径4センチ前後の小石が敷き詰めてあり、こうした石敷きは内裏以外では出土しておらず、格式の高い施設だった可能性が高い。